広告について [真夜中のつれづれ記…]
インターネットYoutubeの動画広告。
最近、或る変化に気づきませんか。
お客さんに語る声が小さいですよね。
これまで、威勢のいい人の大きな声のバージョンが多かったですが、
そのパターンだと、「また、広告か」とうざったがられますね。
小さな声で話すメリットは、聞き手が、最初よく聞こえないので注意して耳を傾けることです。
それで、いつの間にか語る内容に没入していくんです。
ですが、大前提として、ネットの動画広告のほとんどは、実際はすんなりとはお金は稼げないノウハウを、
「これを読めば、すぐに稼げるようになります」と謳って販売しています。
だいたい、その手法で稼げるなら、本人がその手法でどんどん稼げばいいということでしょう。
他人にやり方を教える、ということは、自分は、その金もうけにかける時間を減らすことになりますから、矛盾しています。
他人が悪口を裏で言っていても、別に気にならない。 [真夜中のつれづれ記…]
めぐりんの車窓から
SNSで、共通の知人が、自分のことを悪く言っていたから、アイツは許せない、という人が多いんですが、
そんなの気になります?
言わせておけばいいだけでしょう。
相手にしか言わなかった特定の情報が暴露されてたとしても、聖書の言葉でありますが、「おおよそ、隠されていることで明らかにならないことはない」ということです。
問題は、それを聞いた他人が、自分のことをどう思うかです。
客観眼をもっている人は、悪口を言った人の内容をそのままは信じません。
勝手に言わせておけ、という気分です。
現実と夢の境界 [真夜中のつれづれ記…]
人間は、夢と現実の事柄を、どうやって区別しているのだろう。
僕には、境界の危うい事象がある。
定時制高校を卒業したのに、その後、さらに、「もう一度通いたいから」という理由で、同じ学校に通った、という設定の夢をみる。
その事柄が、現実に生活しているときにでも、「そう言えば、もう一回行ったなぁ」と認識しているときがあるのである。
醒めて考えてみれば、高校は、もう一度行き直す、ということが出来ない。卒業していれば。
商業科や工業科などの、たとえば僕が卒業したのは普通科だから、違う科には、もう一度行き直すことが出来るらしいが。
そこまで考えて、やはり、あの事象は夢のなかでの出来事だったのだと認識できる。
また、別の件で、昔乗っていた自家用車が、まだ、車庫に残っていて、車検切れではあるが、たまに運転している現在である、という夢もみる。
その夢は、まだ、直近の最後の車を温存していた頃で、その車があるのに、もっと昔に乗っていたスポーツタイプの車検切れの車が車庫に温存されている、という夢なのだ。
この思い込みが、覚醒しているときにも起こり、当時つかっていた車庫まで、車があるか見に行ったこともある。
人間というのは、どうやって夢の事象と現実の事象の区別をしているのだろう。
日記や備忘録は、その意味で役立つ。